杉原千畝(すぎはらちうね)
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数年前S.スピルバーグが監督をした映画「シンドラーのリスト」という映画が大ヒットしました。第二次世界大戦中、ナチスにひどい迫害を受けていたユダヤ人を救うため、自らの工場の従業員として雇い入れる申請書を必死で書き上げ、1200人ものユダヤ人を救ったという、「英雄」シンドラーの物語でした。 しかし、シンドラーより3年も早く、日本政府の反対を独断で押し切り、ユダヤ人が国外へ逃げ延びるために必要なビザを発行して6000人ものユダヤ人の命を救った「英雄」が日本人であったことを知る人は多くありません。 杉原千畝(すぎはらちうね)。金山にある名古屋市立平和小学校(旧名古屋市立古渡尋常小学校)の卒業生。彼こそ日本のシンドラーとも言われる人物です。 1900年1月1日、岐阜県加茂郡に生まれた千畝は、父親の仕事の関係で岐阜、三重、愛知と転校を繰り返しました。古渡尋常小学校を「全甲(全てトップ)」の成績で卒業した後、愛知県立第五中学校(現愛知県立瑞陵高校)へ進学。かねてから語学に興味があった彼は、医者になることをすすめる父親の反対を押し切って、早稲田大学高等師範部英語科予科に入学しました。 彼に人生の転機が訪れたのは、大学2年生の時。大学図書館で偶然見つけた外務省の官費留学生の募集広告には、次のような内容が記されていました。「官費で3年間留学して、語学を身につけたのちに、外交官に採用される」・・・仕送りを止められ、苦しい学生生活を送っていた千畝は喜んで飛びつきました。「アルバイトをしなくても語学が学べる!」 1924年に外務省書記生に採用され、ハルビン、フィンランドのヘルシンキの領事館勤務を経て、1939年、運命の地リトアニアの首都カウナス日本領事館領事代理に任命さます。 1940年7月、ナチスドイツに迫害されていたユダヤ人たちは、日本通過ビザを求めカウナスの日本領事館に押し寄せました。オランダやフランスもナチスに占領され、ソ連から日本を通って他の国に逃げるほか、もはや助かる道がなくなっていたためです。 千畝は5人のユダヤ人代表を選び話を聞きました。数人のビザなら領事の権限で発行できるが、数千人のビザとなると本国の許可がいる。電報を打って問い合わせても、日本政府は再々にわたり「ユダヤ人難民にはビザを発行しないよう」回訓を与えてきました。一晩中考えぬいた末、千畝は外務省の意向に背き自らの判断でビザを発行することを決断します。それからおよそ1か月の間、千畝はビザを書き続け、これにより6000人とも8000人ともいわれるユダヤ人の命が救われたのです。 1969・イスラエル政府の宗教大臣より勲章を受ける。 1985・イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞。 1991・リトアニアに杉原千畝記念碑が建立され、「杉原通り」が出来る。 彼の勇気ある行動は世界中から賞賛されています。 杉原千畝氏については、岩庄さんのホームページでも詳しく紹介されています。 ⇒「食べられないきしめん」 |

第二次世界大戦中の外交官。